「おことば」の過去ログを読む
和歌の選択および解釈は、主に大久保道舟著『道元禅師全集』を底本とした大山興隆著『草の葉 —道元禅師和歌集−』(曹洞宗宗務庁刊)を参考にさせていただきました。
「禅師の和歌は、その名(傘松道詠)の示す如く、仏の教えを詠み、句外にそのこころを偲ぶ道詠そのものが多い。しかし同時に、(中略)文学作品としてもすばらしく、強いて道詠とせず、率直に詠んだ歌ごころを汲みとるのが、禅師により忠実でないかとも思われる。」(同書「はじめに」より)
平成20年12月のおことば
即心即仏ヲ詠ズ
鴛どりか白鴎とも又見えわかぬ 立る波間にうき沈むかな
(おしどりか かもめともまた みえわかぬ たつるなみまに うきしずむかな)
平成20年11月のおことば
山ずみの友とはならじ峯の月 かれも浮世をめぐる身なれば
(やまずみの ともとはならじ みねのつき かれもうきよを めぐるみなれば)
仏の光明や衆生の清浄心にも譬えられ、密教の月輪観では観想の対象ともなる月では あるが、月そのものはこの世の存在に過ぎず、執着を去って山寺に安居する修行者が 友とすべきものではない。
いくらその美しさを愛でたとしても、わがものとすること はできないのだから。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年10月のおことば
人しれずめでし心は世の中の 只山川の秋の夕暮れ
(ひとしれず めでしこころは よのなかの ただやまかわの あきのゆうぐれ)
三千大千世界の広大な空間の中で、月光に象徴されるような精神の美、心の美を感じ 取らなければならないのだが、いまだ無明(迷い)の中にあって、外観の美をも美し いものと感じてしまうのだ。
限りない高みを目指して厳しい日々を送りつつ、いまだ途上にある自分を許してみる。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年9日のおことば
大空に心の月をながむるも 闇に迷ひて色にめでけり
(おおぞらに こころのつきを ながむるも やみにまよいて いろにめでけり
三千大千世界の広大な空間の中で、月光に象徴されるような精神の美、心の美を感じ 取らなければならないのだが、いまだ無明(迷い)の中にあって、外観の美をも美し いものと感じてしまうのだ。
限りない高みを目指して厳しい日々を送りつつ、いまだ途上にある自分を許してみる。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年8月のおことば
荒磯の浪もえよせぬ高岩に かきもつくべき法ならばこそ
(あらいその なみもえよせぬ たかいわに かきもつくべき のりならばこそ)
仏法とは、大波の打ち寄せる磯辺で、その波さえも届かないほどの高い岩に牡蠣貝が ついているようなものだ。
それほどの困難を乗り越え、よほどの努力を伴わなければ、書き物(文字)の奥にあ る仏の御心を読み取ることは難しい(不立文字・教外別伝)。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年7月のおことば
しづかなる心の中に栖む月は 波もくだけて光とぞなる
(しずかなる こころのうちに すむつきは なみもくだけて ひかりとぞなる)
さまざまに心を砕き工夫弁道する中に、岩礁に砕けた波が月の光を反射するように、波だった心が静まり仏の光明を宿すのである。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年6月のおことば
立よりてかげもうつさじ渓川の ながれて世にし出でんとおもへば
(たちよりて かげもうつさじ たにがわの ながれてよにし いでんとおもえば)
僧侶は、谷川の岸に立って水面に影を映すことさえしないものだ。
その水は流れて、やがて俗世間に出ていくものなのだから。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年5月のおことば
頼みこし昔のしゆうやゆふだすき 哀をかけよあさのそでにも
(たのみこし むかしのしゅうや ゆうだすき あわれをかけよ あさのそでにも)
古来より神事の際に袖をかかげる木綿襷(ゆうだすき)よ、麻衣(僧服)の袖にも慈愛をかけて下さい。
日本神道の神々よ、僧侶をもお護り下さい。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年4月のおことば
あづさ弓春の山風吹ぬらん 峰にも尾にも花匂ひけり
(あづさゆみ はるのやまかぜ ふきぬらん みねにもをにも はなにほひけり)
春の風が吹いたのだろう。山のいただきや裾のあちこちに、花の匂いが立ち籠めている。
私たちは、身近なものばかりでなく、風のように目に見えないもの(仏神の冥助)にも多く支えられている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年3月のおことば
世の中はまどより出るきさの尾の ひかぬにとまるさはり計りぞ
(よのなかは まどよりいづる きさのをの ひかぬにとまる さはりばかりぞ)
世の中は、「窓から外に出ようとした象が、尾が引っかかって出るに出られない」という夢の話のように、ままならないことばかりだ。
家族や仕事を捨てて出家したはいいが、心は名利や俗事にとらわれたまま。
いつまでも悟りを得られず、かと言って、そう簡単に戻るわけにもいかないのだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年2月のおことば
声づから耳に聞ゆる時されば 吾が友ならんかたらひぞなき
(こえづから みみにきこゆる ときされば わがともならん かたらひぞなき)
声が聞こえて来たと思ったら、私の友なのであろう。
今、語らうことは特にないが、気心が通じていて心地よいものだ。
友とは仏祖のことか。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成20年1月のおことば
賤士のかき根に春の立ちしより 古野におふる若菜をぞつむ
(しずのおの かきねにはるの たちしより ふるのにおうる わかなをぞつむ)
田舎の家の垣根にもようやく新春の息吹が感じられ、
旧年から放置された田んぼの、枯れ草の合間に見える、春の七草を摘んでみた。
旧来と変わらぬように見える状況の中でも、新たなる希望は確かに芽吹いている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年12月のおことば
おろかなる吾れは仏けにならずとも 衆生を渡す僧の身なれば
(おろかなる われはほとけに ならずとも しゅじょうをわたす そうのみなれば)
自分が成仏できてから人を救う、というようなことであってはならない。
人々が救わ れてこそ、僧侶の安心があるというものである。
自未得度先度他の心。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年11月のおことば
心とて人に見すべき色ぞなき 只露霜の結ぶのみ見て
(こころとて ひとにみすべき いろぞなき ただつゆしもの むすぶのみみて)
心とは、人に見せられるような固定した形があるわけではない。露や霜がいつの間にか現れ、また消えていくように無常である。いつまでも過去の失敗にくよくよしたり、反対に、いつまでも過去の善行を自慢したりすることなく、今、仏道に勤めることだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年10月のおことば
此経の心を得れば世の中の 売買声も法を説くかな
(このきょうの こころをうれば よのなかの うりかうこえも のりをとくかな)
法華経の心髄を会得すれば、市場での売り買いのような世間の営みも、仏法を説く声に聞こえる。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年9月のおことば
又見んと思ひし時の秋だにも 今夜の月にねられやはする
(またみんと おもいしときの あきだにも こよいのつきに ねられやわする)
療養のために京に来て、来年の秋もまた観るつもりなのに、
身体に障るのを承知しな がらどうしても眠ることができない。
今夜の名月をいつまでも眺めていたいものだ。
道元禅師最後のご詠歌。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年8月のおことば
本末も皆偽りのつくもがみ 思ひ乱るる夢をこそ解け
(もとすえも みないつわりの つくもがみ おもいみだるる ゆめをこそとけ)
人の一生が行き着く先はみな虚しく、ざんばらに乱れた白髪のようなものだ。
だがそれよりも、心の中に乱れた煩悩を、きれいに梳くがよい。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年7月のおことば
安名尊七の仏のふる言は まなぶに六つの道を越えけり
(あなとうと ななのほとけの ふることは まなぶにむつの みちをこえけり)
なんと尊いことだろうか。過去七仏、特に七人目の釈迦牟尼仏の説かれた御言葉は。
学び生きることで、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)輪廻の苦しみを脱し、
四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の道に入ることができるのだから。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年6月のおことば
草の庵夏の初の衣がへ 涼き簾かかるばかりぞ
(くさのいお なつのはじめの ころもがえ すずしきすだれ かかるばかりぞ)
衣更えの季節だが、草庵に暮らす僧侶には、涼しい簾をかけるだけのことだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年5月のおことば
水鳥の行も帰るも跡たえて されども路はわすれざりけり
(みずどりの ゆくもかえるも あとたえて されどもみちは わすれざりけり)
水鳥は水面に跡も残さずに、気ままに屈託もなく泳いでいるように見えるが、向かうべき路を忘れてはいない。
自由な生活に埋没することなく、仏子の本分に勤めよ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年4月のおことば
いただきに鵲の巣やつくるらん 眉にかかれり蜘蛛のいと
(いただきに かささぎのすや つくるらん まゆにかかれり ささがにのいと)
樹上に作られる鵲の巣は、よく「樹にかかる月」に譬えられる。
月のようにまるい光背が後頭部で輝き(頭光)、蜘蛛の糸のように細い光が放射状に拡がり、眉にかかり、全身を荘厳し、衆生を照らしている。仏との相見。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年3月のおことば
あづさ弓春暮れ果る今日の日を 引留めつつをちこちやせん
(あづさゆみ はるくれはつる きょうのひを ひきとどめつつ をちこちやせん)
今日もはや春の日がとっぷりと暮れてしまった。
沈みゆく日を引き留めて、しばし修行の時間を増やせないものだろうか。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年2月のおことば
春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり
(はるははな なつほととぎす あきはつき ふゆゆきさえて すずしかりけり)
本来の面目(仏の姿)は美しさに満ちている。
己の心に仏性を見出す(即心是仏)者は、あらゆるものごとに仏の輝きを認めることができる(真空妙有)。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成19年1月のおことば
尋ね入るみやまの奥の里ぞもと 我がすみなれし 京なりけり
(たずねいる みやまのおくの さとぞもと わがすみなれし みやこなりけり)
苦労して尋ね入った山奥の里は、初めて訪れた地ではなく、住み慣れた都(居心地の よい場所)であった。
修行の果てに到達する境地とは、別人に生まれ変わることではなく、本来の自己を取 り戻すことに他ならない。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年12月のおことば
誰れとても日影の駒は嫌ぬを 法の道得る人ぞ少なき
(たれとても ひかげのこまは きらわぬを のりのみちうる ひとぞすくなき)
走る馬のようにたちまち過ぎゆく日常は、誰もが大切にしたいと思っている。
しかし、悟りを得る人は少ない。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年11月のおことば
謂すてし其言葉の外なれば 筆にも跡を留めざりけり
(いいすてし そのことのはの ほかなれば ふでにもあとを とどめざりけり)
真理は、気安く口にしたその言葉の奥にこそあるのだから、筆先(文字)にもその痕跡を留めることはないのだよ。(不立文字を詠って)
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年10月のおことば
六つの道遠近迷ふ輩は 吾が父ぞかし吾が母ぞかし
(むつのみち おちこちまよう ともがらは わがちちぞかし わがははぞかし)
六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)のあちこちに迷う同輩たちが、私には父母(家族)のように思えてならない。
同悲同苦の心を詠ったもの。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年9月のおことば
朝日待つ草葉の露のほどなきに 急な立ちそ野辺の秋風
(あさひまつ くさばのつゆの ほどなきに いそぎなたちそ のべのあきかぜ)
草葉の露がもう間もなく朝日を浴びて輝こうとしている。
秋の風よ、いましばらく吹 かずに、露を散らさずにいてほしい。
露のようなはかない命でも、悟りを得るためにけなげに努力している。
空しいことではあるが、無常の風(死)の訪れが少しでも遅れることを願わずにはいられない。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年8月のおことば
おろかなる心一つの行く末を 六つの道とや人のふむらん
(おろかなる こころひとつの ゆくすえを むつのみちとや ひとのふむらん)
ただ愚かな心(無明)一つを元として、人々はいつまでも六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)輪廻という迷いの生存を繰り返していくことだろう。
無明を打ち破るものこそ、仏の智慧にほかならないのだが。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年7月のおことば
草の庵にねてもさめても申す事 南無釈迦牟尼仏憐み給へ
(くさのいおに ねてもさめても もうすこと なむさかむにぶち あわれみたまへ)
草庵での出家生活で、寝ていても起きていても怠らずに、常に申し上げていることがある。
「釈迦牟尼仏に帰依し礼拝いたします。どうか、仏の子である私たち衆生を憐れみ、お導き下さい」
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年6月のおことば
聞ままにまた心なき身にしあれば おのれなりけり軒の玉水
(きくままに またこころなき みにしあれば おのれなりけり のきのたまみず)
無心に、雨の音を聞いている。迷いを断った己がいる。 ~碧巌録第四十六則より~
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年5月のおことば
此心天つ虚にも花そなほ 三世の仏にたてまつらなん
(このこころ あまつそらにも はなそなほ みよのほとけに たてまつらなん)
雲一つない遥かな大空の如く、美しい心を花として、過去・現在・未来の仏に奉りたいものだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年4月のおことば
夜もすがら終日になす法の道 皆此経の声と心と
(よもすがら ひねもすになす のりのみち みなこのきょうの こえとこころと)
夜通し、一日中、仏道を歩み続けていると、すべてが経典に籠められた仏の声、仏の心に包まれている。感応道交の悦び。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年3月のおことば
春風に吾が言葉の散ぬるを 花の歌とや人のながめん
(はるかぜに わがことのはの ちりぬるを はなのうたとや ひとのながめん)
春風に誘われて気持ちが軽くなり、つい口数が増え、歌も詠みたくなる。
それを世間では、「花に浮かれている」と見ていることだろう。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年2月のおことば
隙もなく雪はふりけり谷深み 春きにけりと鶯ぞなく
(ひまもなく ゆきはふりけり たにふかみ はるきにけりと うぐいすぞなく)
間断なく雪は降り続け、谷はすっかり埋もれている。しかし、鶯が春の到来を告げている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成18年1月のおことば
駟の馬四の車に乗らぬ人 真の道をいかでしらまし
(よつのうま よつのくるまに のらぬひと まことのみちを いかでしらまし)
仏の教えは広大無辺であり、多くの衆生の機根や苦しみの諸相に合わせて説かれたものである。
その幅の広さに戸惑い、時に自分勝手な解釈に陥っていることに気づかない。
阿含経の四馬のたとえ、法華経の四車のたとえにあるような修行者の心得を忘れず、精進に励みたいものだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年12月のおことば
閑らに過す月日は多けれど 道をもとむる時ぞすくなき
(いたずらに すごすつきひは おおけれど みちをもとむる ときぞすくなき)
人の歩むべき、ほんとうの道を実践することの難しさ、そして、一日一日の尊さを詠っ たもの。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年11月のおことば
花紅葉冬の白雪見しことも 思へばくやし色にめでけり
(はなもみじ ふゆのしらゆき みしことも おもへばくやし いろにめでけり)
春の花、秋の紅葉、冬の雪と、四季折々の美しい景色に、思わず心が奪われてしまう。
出家者としては残念なことであるのだが。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年10月のおことば
足びきの山鳥の尾のしだり尾の 長長し夜も明けてける哉
(あしびきの やまどりのおの しだりおの ながながしよも あけてけるかな)
山鳥の尾に譬えられる長い長い夜も、ようやく明けてきたようだ。
夫婦でも独り寝をするという山鳥は、山僧を想わせる。
いつ果てるとも分からなかった無明の人生に、仏の智慧の光が射してきた悦び。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年9月のおことば
波も引き風もつながぬ捨小舟 月こそ夜半のさかひ成けり
(なみもひき かぜもつながぬ すておぶね つきこそよわの さかひなりけり)
凪いだ水面に、乗り捨てられた小舟が漂っている。
夜空には月が皓々と輝き、闇夜の 行方を照らしている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年8月のおことば
山のはのほのめくよひの月影に 光もうすくとぶほたるかな
(やまのはの ほのめくよひの つきかげに ひかりもうすく とぶほたるかな)
姿を見せない月がほのかに山の稜線を浮かび上がらせる宵闇に、月の光には及ばない ながら、蛍が光を発して飛んでいる。
仏(月)が在世でない時代の仏弟子(蛍)の自灯明の姿勢を、望郷の念に託したものか。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年7月のおことば
草庵に起きてもねても祈ること 我れより先に人を渡さん
(くさのいおに おきてもねても いのること われよりさきに ひとをわたさん)
山深い草庵生活での、道元禅師の祈り。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年6月のおことば
にほの海や矢橋のおきの渡し舟 おしても人にあふみならばや
(にほのうみや やばせのおきの わたしぶね おしてもひとに あふみならばや)
琵琶湖にて、矢橋から渡し舟に乗り、自ら櫓を漕いで沖に出たのは、どうしても彼の人に会いたいからだ。
彼岸(悟りの境地)に到り仏(釈尊)に会いたいという、切なる気持ちを譬えているのだろう。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年5月のおことば
過にける四十余りは大空の 兎烏の道にぞありける
(すぎにける よそじあまりは おおぞらの うさぎからすの みちにぞありける)
これまで過ごした四十数年の歳月(玉兎・金烏)は、広々とした大きな青空のようにいつも爽やかなものであった。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年4月のおことば
春風に綻にけり桃の花 枝葉にわたる疑ひもなし
(はるかぜに ほころびにけり もものはな えだはにわたる うたがいもなし)
春風が快く頬をなで、桃の花がようやく咲き始めた。この桃の花を機縁とした霊雲禅師の悟りは、まったく疑う余地のない、尊いものであった。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年3月のおことば
いつも只我が古里の花なれば 色もかはらず過し春哉
(いつもただ わがふるさとの はななれば いろもかわらず すぎしはるかな)
仏の国に咲く花(涅槃妙心)は、色も香りも仏の光に包まれてつねに美しく、また散っていく。
こうして春を迎えて、もう何年になるだろう。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年2月のおことば
夏冬も思ひに分ぬ越の山 ふる白雪も鳴るいかづちも
(なつふゆも おもいにわかぬ こしのやま ふるしらゆきも なるいかづちも)
雪は冬に、雷は夏にあるものと思っていたが、さすがにここは北国、時ならぬ雪や雷鳴がある。
人生にははかり知れないことが起こるものだ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成17年1月のおことば
我が庵は越の白山冬籠り 氷も雪も雲かかりけり
(わがいおは こしのしらやま ふゆごもり こおりもゆきも くもかかりけり)
越前の白山山系にある粗末な草庵(吉峰か禅師峰か)で越冬する。
川の流れは凍り、雪は降り積もって、いちめん雲に蔽われている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年12月のおことば
とどまらぬ日影の駒の行すゑに のりの道うる人ぞすくなき
(とどまらぬ ひかげのこまの ゆくすえに のりのみちうる ひとぞすくなき)
馬が走り去るように時は流れ、とどまることがないのに、
仏の教えを真剣に学び、悟る人は少ない。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年11月のおことば
心なき草木も今日はしぼむなり 目に見たる人愁へざらめや
(こころなき くさきもきょうは しぼむなり めにみたるひと うれへざらめや)
心がないと言われている草木も今日はすっかり生気を失い、萎えしぼんでしまった。
道理を見極めた人は、草木の心をも憂えて心を痛めている。
仏の慈悲はすべてのもの に注がれている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年10月のおことば
長月の 紅葉の上に 雪ふりぬ 見ん人誰か 歌をよまざらん
(ながづきの もみじのうえに ゆきふりぬ みんひとたれか かをよまざらん
)
秋も深まり、越の山々は濃い紅葉に照り映えている。
今日はその紅葉の上に、初雪が 降った。
このような美しい景色を愛で、歌を詠まないものがいるだろうか。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年9月のおことば
草の葉に かどでせる身の 木部山 雲にをかある 心地こそすれ
(くさのはに かどでせるみの きのめやま くもにをかある ここちこそすれ)
療養のためとはいえ、やむなく京へ旅立つことになった(建長5(1253)年旧8月)。
ここは国境の木ノ芽峠、越前の山々とも別れるかと思えば、なんとなく心もとなく、雲の外にあるような心地がする。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年8月のおことば
山深み 峰にも尾にも 声たてて 今日もくれぬと 日暮ぞなく
(やまふかみ みねにもおにも こえたてて きょうもくれぬと ひぐらしぞなく)
ここは山も深く、静寂そのものである。
それだけに日暮れもはやく、もうひぐらしが 声高く、今日の終わりを告げている。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年7月のおことば
渓の響き 峰に鳴猿 妙妙に 只此経を 説くとこそ聞け
(たにのひびき みねになくさる たえだえに ただこのきょうを とくとこそきけ)
谷川の水音がする。時折、野猿の鳴く声が耳に入る。
それらには何とも言えない勝れた響きがあり、
この経の心を説き聞かせられているような心地がする。
この山が法華経の仏土のように聞こえてくる。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年6月のおことば
早苗とる 夏の始の 祈には 広瀬竜田の 政をぞする
(さなえとる なつのはじめの いのりには ひろせたつたの まつりをぞする)
早苗をとる夏も近づいた。全てのものが幸せで、安らかな生活を送れるように、
農の神に祈りを捧げ、豊かな実り、五穀の豊饒を期したいものである。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年5月のおことば
世の中に 真の人や なかるらん 限も見えぬ 大空の色
(よのなかに まことのひとや なかるらん かぎりもみえぬ おおぞらのいろ)
この世の中で、本当に仏の教えを悟った人はいないものだろうか。
今日も青空が、涯てもなく晴れ上がり、明るい日差しに輝いている。
(この世界に存在するあらゆるものは 何のいつわりもなく大空のようにカラリとして明瞭で変わることのない真性そのものである)
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年4月のおことば
嬉くも 釈迦の御法に あふみ草 かけても他の 道はふまめや
(うれしくも さかのみのりに あふみぐさ かけてもほかの みちはふまめや)
この世に生まれ、お釈迦さまの教えに逢うことができるのは、ほんとうにうれしいことである。
誓って仏の教えにそむき他の道を歩むようなことはしないぞ。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
平成16年3月のおことば
峰の色 谷の響も 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と
(みねのいろ たにのひびきも みなながら わがしゃかむにの こえとすがたと)
山々の色合いも、谷川の響きも、すべてそのままに、お釈迦さまのお声であり、お姿である。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より
オシドリともカモメとも見分けがつかないが、遥か沖合いの波間に、白く美しい鳥が浮き沈みしている。同じように、煩悩に振り回されている私たちではあるが、その心の奥底には、仏の心に通じるものが確かにあるのだ。絶望してはならない。
道元禅師和歌集『傘松道詠』より